ブータンの首都ティンプーでのワークショップを実行するべく現地に滞在するアーティスト五十嵐靖晃と北澤潤の日記。

2011年4月8日金曜日

4日後 北澤潤

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 東北道を北上する。ブータンから帰って4日目だ。

短い時差の影響か、ひさしぶりの長距離運転だからか、眠気が襲う。その都度SAにより短時間の仮眠をとる。ちゃんと東北にくるのが初めての私にとっては、東北道の風景すら新鮮である。これから見ることになる風景をおもうとどうしたらいいのかわからない気持ちになる。

 

 白石ICをひたすら目指して進む。長く感じる道のりだ。ICを降りてからも長い。大通り沿いの店並みは関東の郊外地区と似ている。通常通り営業しているようだ。

 

東に、海岸にむかって進む。国道4号と6号が交わるところで右折するはずが通り過ぎてしまい、引き返す。6号を走り、南下。常磐道に乗り一区間分はしる。海岸線からすこしはなれて並行している高速道、もう日が暮れて来ていたので見えにくかったが、左をみてもとくに変わった所はないように思えた。しかし、もうしばらく行くと異変に気づく。広大な畑に無数の車がちらばっている。ひっくりかえったり横転しているものがたくさん見えた。この世の異景を垣間みて、絶対に見てはいけないものを見たような感覚に陥る。車を走らせる。

 

目的地の福島県相馬郡新地町に近づく、6号をはしりながら時々横道にそれるが、道はみつからず引き返す。行き止まりだったというより、地面や大きな木の根っこがめくれ上がったような奇形の地表に恐れを感じて戻っていった。

 

ようやく新地町にはいる。ここには徳島県で知り合った友人であり旅人の西川さんが前日に入っていて、彼に会うためにきた。会って情報交換したら、北上し明日は亘理地区でボランティアをしようと考えていた。

 

商品の少ないコンビニに停車して電話すると、西川さんが出た。さらにさきにコンビニがもうひとつあるからそっちに来て、という。車で数分。2月に徳島を訪れて以来、こんなに早く再会することになるとは思っていなかった。

 

いまこのちかくのお家にお世話になっているらしく、話したらつれておいで、と言われたということで、私も向う。西川さんは日本を旅していた時にここ新地にお世話になったそうだ。

 

家に入ると、陽気なお母さん2人が焼きそばを作っていた。こんな展開になるとは思っていなかった。車中泊するつもりで食料も全て用意してきたのだが、食事をお家ですることになった。いろんなことを話した。震災以外の事もかなり多く話したが、地震と津波がきた時の話は、二人とも静かな絶望感をふくんでいたように思えた。

 

「前は聞こえなかった波の音が聞こえるのよ。遮るものがみんななくなっちゃった。」

お風呂を入る前にゆみこさんが言った言葉だ。

 

明日は早く起きて西川さんの動きにとりあえずついて様子を見ながら迷惑そうであればボランティア受け入れができている亘理地区にいくかもしれない。新地町はまだボランティアの受け入れ態勢が全く整っていないのだ。

 

 

 

9日目 写真

9日目 北澤潤

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 寝グセを抑えながら車にのりこむ。出発の時間。

ティンプーからパロへの陸路、地元の学校がマラソンをやっていた。

ブータンの若者のシェアハウスにつれられ、さらにダンスホールにまでつれられた昨晩のせいで山々の景色と睡魔が交差する。

 

 パロ空港に着いて、胸ポケットのパスポートを確認、ガイドのリンチェンさん、ドライバーのティンレーさんとお別れ。この二人には本当に笑わされた。「こんかいガイドはいつもとちがくておもしろかたです、はい。」と言われて、また来るときはガイドお願いしますと返した。

 

 尾翼の国旗を写真に撮ってから、飛行機に乗り込む。

 

座席に座って振り返る。

 

基本的な生活をまずどうつくっていくかという思考を迫られている小さな国ブータンの今を感じ、それは都市に向うのではないのだ、むしろチマチマと家を共につくる姿に見えない可能性があるのだ、という意見をカタチにしていく未来のアクションを想像する。現在構築中のこの場所にとって我々の更なる活動が機能していかなければいけないのだと、とても主観的に自分のカラダの在り方を確認して。

 そして、それはどこでも変わらないのだと思いたい。日本だってブータンだって変わらない。今後いくつもの異なる現状をもった地域社会に出くわし活動することになると思うが、そのとき自分が最もできることを握りしめて、真っ向から其処に居る人たちと関わっていく。いくつものコトバに板挟みになりながらも動き続けた10日間の終わり。離陸直後のドゥルクエアー。果てなく青い空の上から、普段考えていることを恐ろしい程の実感とともにもう一度噛み締めていた。

 

9日目 1日後 五十嵐靖晃

「帰国」

 

 ブータンから日本へ移動する日。昼の11:20パロ発の便でバンコクに向かい、数時間バンコクの空港に滞在し、夜の23:50バンコク発の便で成田に向かう。機内で一泊して翌朝4月3日の朝8:10に成田に到着した。そしてそのまま、その足で、昨日から今日までアーツ千代田3331で開かれている、東日本大震災復興支援アートアクション「いま、わたしになにができるのか?—3331から考える」に向かうという2日間の動きだった。

 

 ブータンを離れる朝を迎える。8時ロビー集合。空港に向かう道中、地元の学校の駅伝大会が始まろうとしていた。道中点々と人が集まっている。ブータンにも駅伝あるんだ、、、などと車窓を流れる景色を半分寝ながらぼーっと見ていた。

 

 9時過ぎにパロの空港に到着。今回、とてもお世話になったガイドのリンチェンさんとドライバーのキンレイさんとお別れである。この2人はほんとにいいコンビで、さんざん笑わせてもらった。毎日一緒だったこともあるし、ワークショップも一緒にやってくれたし、ガイドとドライバー対外国人という垣根は完全に飛び越えて、既に仲間のような感覚になっていた。

 

「リンチェンさん。今回のガイドどうだった?」「こういうの、わたし、はじめてで、おもしろかった。つぎきたら、わたしまたガイドします」その様子を、いつも通り少し離れたところでキンレイさんがニンマリしながら見ている。だいたいこんな感じだった。次回も是非このコンビにお願いしたい。

 

 そう。また来るんだなと、思わせる国である。なんというか、はるか遠くの外国というより、ちょっと離れた日本の故郷といった感覚である。初めて来たにも関わらず懐かしさと親しみを感じた国だった。

 

 尾翼に描かれたブータン国旗とそのむこうにある近い空をしっかりと目に焼き付けて飛行機に乗り込んだ。

 

 パロ→バンコクもバンコク→成田も、飛行機の中ではほとんど寝ていた。ブータンでは朝から夜までがっつり動いていたので、かなり疲れていた。バンコクでの乗り換えを待つ時間は、書き切れなかった日記を書いていた。

 

 4月3日の朝、日本に到着。成田空港でまず目についたのが、動いていない動く歩道。そこには震災の影響による節電です。と書かれた貼り紙がしてあった。外から帰ってきて思ったことは、日本は、特に東日本は大きなプレッシャーの中で生活しているということだ。それは震災を受けて以降、余震への恐怖心や、放射能への不安感といったものが、連続した毎日の中にあり、それを皆同じように暮らしているから、無意識でも、それに慣れてしまわざるを得ない。

 

 そこで考えられることと、離れて考えられることは違う。日本を離れる時もそう自分に言い聞かせていた。

 

 3331に着くと、出発前に被災地である水戸からメールをくれたご家族と偶然再会することができた。「おかえり」と言ってくれる。僕は「ただいま戻りました。」といってブータンの話と水戸での被災の話を交換する。僕にとって初めて会った被災者でもあった。正直、会えただけでとても嬉しかった。でも当然ながらその表情はいつもとは違うし、その雰囲気から僕の想像では及ばないストレスを感じる毎日の中にいたのだと理解した。

 

 離れたから考えられること、むこうで得たものを被災地に届けられるかもしれないと思って日本を出たが、むこうで全力で土地と人と向き合って動くには、ある程度気持を切り替えざるを得なかった。結局、できることは、現場に行かないと分からない。それはブータンでも被災地でも同じである。そこの土地と、そこに暮らす人達と向き合った時に初めて、僕が本当にやるべきことがはっきりするのである。

 

 土地に入って活動する時、全力で向き合う覚悟がなければ、何も伝えることなどできない。

 

 行く前と行った後と何が変わったのだろう?

 

 空にほど近い、日本のふるさとからの「幸せとは何か?」という問いかけが僕の中に響いている。間違いなく持ち帰ってきたものの1つはその問いかけだ。

 

「幸せとは何か?」その言葉に、記憶がよみがえる。過去の日記を捜す。それは6年前、4ヶ月間ヨットで太平洋の島々を旅した時の最後に、自分のためだけに書いた日記の中にも記されていた言葉だったことに驚いた。

 

そこにはこう綴られていた。(一部のみ抜粋)

科学技術の発展と共に人はどんどん退化しているように思う。退化だけならまだ良いが生きていく豊かさすら既に日本という先進国では見つけづらくなっている。みんな何処に向かって行けばいいのかよくわからないのだ。何が幸せなのか。どうなりたいのか。生きているリアリティを感じたいのだ。今まで人類は世界を理解するために数々の方法を編み出して、それを説明しようとしてきた。理解できない何か全てものを説明するために、人は宗教を作り、その長く続いた時代が終わり、科学の時代が来た。科学で世界の全てを説明しようと理解しようとしてきた。それは結果的に利便性と引き換えに心の豊かさと、生き物としての強さと可能性を危険にさらすこととなった。どの時代も必ず終わりが来る。飽和状態となって終わりが来る。そもそも全ての説明をすることなどひとつの考えでは不可能なのだ。あり得るとしたら、世界は自分があるから存在するわけであって、その自分というのもを高めること。宗教でもなく科学でもなく自分を研究することが一番重要で一番豊かに生きることができる唯一の方法なのだろう。誰かの真似をしたところで決してその人以上にはなれないし、むしろ気づいた時に死にたくなるだろう。いったい今まで何をしてきたのかと、、、。アートはそれを常に実験している。

 そう、僕は僕の人間性の追及をしたいのである。人間らしさを研究したいのである。豊かに生きるために、それを発信するのは豊かに生きるために何かを探して喘いでいる姿を見せるようなもの、でもその姿を見てそれから何かを感じてくれればそれこそが表現なのではないだろうか。そして見た人が自分で探せばいい。自分にしか見つけられない自分を、、、。

 

そういえば、あの時、航海を終え、展覧会場であった水戸に帰ってきた時に、初対面で、水戸駅前で会って「おかえり」と言ってくれたのも、今日3331で会った水戸のその人だった。

 

あれから6年経つ。海のむこうを見てきて、近くに空を感じてきて、少しはその答えに近づいているのだろうか?

 

それは僕がこれからも活動を通して体現していくしかない。

 

ブータンの飲み屋で会った酔っぱらったおじさんに「お前の幸せはなんだ?」と突然聞かれたことがあった。僕がうまく言葉にして答えることができずにもごもごしていると。

 

おじさんは「オレの幸せは、次の世代につなげていくことだ」と言っていた。

 

空港に向かう道中、地元の学校の駅伝大会が始まろうとしていた。道中点々と人が集まっている。ブータンにも駅伝あるんだ、、、などと車窓を流れる景色を半分寝ながらぼーっと見ていた。

 

今考えると、あれが今回最後に見つけたブータンだった。

7,8日目 写真


7,8日目 北澤潤

2011331日 41

 

 残りの数日間は、《School of Sky》が終わった余韻のなかで過ごした。そしてブータンとの関係はこれからも続くことを理解する日々となった。

 

 日比野さんと五十嵐さんと三人で、首都ティンプーの各所を訪ねまわる。62mの大仏をみたり、伝統的な美術学校を訪問したりという観光的な動きと同時に、大学でのレクチャーや政府の要人とのミーティングをおこなった。ブータンの偉い人たちにひたすら会いまくってきた。なぜかというと、日比野さんが日本とブータンの観光大使であるということを切り口に、ブータンにおけるアートプロジェクトを将来的に仕掛けていくことを企図しているからである。

 

ブータンの人と話していると日本人とブータン人はとてもよく似ていると言われる。私もそう思う。五十嵐さんはチベット、私はデュパと言われる。大きく5つの地域に別れ言語も異なるブータンのなかで五十嵐さんは北の方のチベット由来の民族、私は中央のブータン古来の民族に顔が似ていると言うわけだ。ブータンを現場とした活動とともに、ブータンと日本を繋げる活動にも可能性はあるだろう。民族の距離を超えた類似性の探求、経済発展の果てのような日本列島といままさに発展と伝統の狭間に立たされているブータンの比較。

 

ブータンには舗装された道路はまだまだすくない、橋もすくない、トイレは全てバケツの水を桶を使い自分で流す。こういった状況をひとつひとつ改善していこうとしている。要するに「次の生活」をつくろうとしているのだ。我々のもつブータンに対するイメージのひとつであるGNH(国民総幸福量)という概念が、人間の幸福とは何か、という問いを発する基準であると外部は思うが、直接会った観光局の長官や外務大臣の言葉からは特にそう伺い知ることはなかった。生活を整え発展させていく、日本は他国より急激に発展したのでお手本だ、と言う訳だ。

 

31日にあった観光局長は日本でのブータンの認知度をあげてほしいと言う。観光がおおきな産業であるブータンにとって、米国に次いで観光客の多い日本は重要な国であることに間違いはない。外資も重要であるので、ブータンに投資してもらうために認知度はとても重要だと語る。

 

この国のもつ日常の美しさを失ったらきっと観光もなにもなくなるだろう。都市化しつつある首都ティンプーはすでに旅人の理想を大きく裏切る様相である。もっとブータン古来の日常性を尊重した観光政策が必要とされるだろうと日比野さんが観光局長のワンゲさんに伝える。そしてここでアートの力を使えないか、ということなのである。国の観光を左右する規模の大きな物語だ。

 

簡単に整理すると、ブータンの日常生活がもつ豊かさを観光客は求める、それなのに局長のいう松茸祭り等のコンサル的イベントはなかなか悲惨である。ただ日常生活を見せようというのもまた難しい。家を皆でつくる姿が面白いので観光資源にしようとすると観光化された文化に一気に置換されてしまう。観光客が来たから一生懸命家をつくり、いない時はつくらないといった目的不純な観光文化が創出されてしまう。これは観光客と土地があまりに表面的な接点しか持たないという前提が大きな問題となっているだろう。記念写真とか、ガイドの説明を聞くとかいう単純な接点。

そこで地域と余所者の関係性を絶妙に複雑化する可能性をもつアートプロジェクトはどうかということだ。日本での認知度アップ、観光人口の増加、経済発展といった行政的条件とどう付き合うかが難しい。

 

このまだ特に決まっていない壮大な計画を、数ある条件とすりあわせてつくっていくことになるのか。今回の滞在と《School of Sky》は、最初の事例をつくるという目的をもっていたわけだ。BBSの波及力はすごいので放送でかなりの人がその事例を知っただろう。

 

Druk Schoolでのとても近い関係性、そこから、国と国の関係性まで。どちらも同時にうまく構築するにはどうするのが面白いか。そんな思案を、大臣との会食や、観光、夜中のブータンビールやピーナッツマサラをつまみながら考えていた。

 


7,8日目 五十嵐靖晃

「最後の2日間」

 

 ワークショップ「School of Sky」を終え、ブータン滞在は一区切りついた。残りの2日間はブータンの外務大臣や観光局長に会ったり、ロイヤルティンプーカレッジでブータンでの活動を講演したり、伝統美術学校を訪問したり、といった動きの中で、ブッダポイントと呼ばれるティンプーの町が見渡せる山の上に建設中の巨大な仏像を見にいったり、ドチュ・ラという標高3150mの山頂にある108個の仏塔を見に行ったり、少しだけ観光もして過ごした。また夜は、仲良くなった友人のソナムに誘われ、表層的な観光では出会えないブータンの若者達の集うシェアハウスに単身乗り込んで、酒を呑んだり、クラブに踊りに行ったりもした。

 

この2日間は、偉い人から今時の若者まで、自然や伝統的な暮らしから都市の暮らしまで、ブータンの表と裏。理想と現実に出会うこととなり、この国の状況であり真実であり問題を自分なりに把握した。そして、この国の未来の可能性に関わることになりそうな予感を感じ。きっとまたこの国に仕事をしに来るんだなぁと、ここで何かをしている自分を漠然とイメージしたのであった。

 

 外務大臣や観光局長に会って話をする理由は、昨日(30日)にブータン入りした日比野さんがブータンの観光大使をしているからだ。特に観光局長との話が印象に残っている。彼が強く言っていたのは、日本におけるブータンの認知度を上げ、観光客を増やしたいということと、はじめての観光大使である日比野さんへの期待は大きいということだった。

 

 ブータンに来る観光客で一番多いのがアメリカ人、次に多いのが日本人。どうしたらもっと観光客に来てもらえるようになるだろうか。観光局長なのだから考えるのは当然である。彼らが考えていることの1つはマッシュルームフェスティバル。ブータンはマツタケがたくさん採れる。しかもブータン人はマツタケより、なにやら黄色くて小さい同時期に採れるキノコの方が好きらしく、マツタケはいくらでもあるのに、キノコシーズンに来た日本人にマツタケを出すと喜ぶ。だから認知度を上げるためにマツタケはどうだろうかということだ。やり方次第の部分もあると思うが、地方物産展をイメージする。マツタケを食べにわざわざブータンまで行くだろうか。

 

 日比野さんはアートが観光の力になるという話をしていた。例として上がったのが、越後妻有大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭だ。そこではアートがきっかけとなり、妻有の里山や瀬戸内の海といった自然を見に、その土地の人達の暮らしや温かなおもてなしに出会いに沢山の観光客が訪れている。ブータンには美しい自然とそれに寄り添った暮らしが今も機能して残っている。

 

 ブータンの人にとっても、美しい自然は分かりやすい。では、分かりづらいであろう暮らしの魅力とはなんだろう。そこで、例として上がったのが、初日に僕らが出会ったパロの建設現場である。そこでは、役所の要人が住む家が建設されていたのだが、日本のように建設業者が建物を建てるのではなく、村ごとに持ち回りで数週間ごとに交代しながら、村人達が建物を建てていた。子供から大人まで、そこには老若男女がおり、時にワイワイと、時にのんびりと皆で共同作業をしている雰囲気に惹かれ、2時間ほど作業に参加させてもらった。とても楽しい体験だった。自分たちの村の建物は自分たちで作るということだ。

 

 だが、この話をして心配になった。仮にこの作業に参加できることを観光体験の1つにしたとすると、最終的には観光客が参加するための家づくりをすることになってしまう。観光化された伝統的な日常生活ほど悲惨なものはない。

 

 また、実際に来てみて感じたのは、ブータンは今、地方で生きている伝統的な生活と、首都ティンプーの都市化する生活の歪みを抱えているということだ。観光局長曰く、戦後急激に発展した日本をお手本に生活を改善していきたいということらしいが、日本からきた我々が魅力的に思うのはむしろ伝統的な暮らしの方である。

 

 僕はその後、ブータンの現実の一側面に出会うこととなる。31日の夕食を終え、滞在中に仲良くなったソナムやその友人達が集うティンプーにあるシェアハウスに誘われ遊びに行った。シェアハウスはコンクリートの新しい建物でシャレている。大学時代からの友人達24か25才くらいの若い仲間が仕事を終えて夜に集う場所だ。職種は様々でテレビレポーター、歌手、高校の先生、ローン会社、現在無職など様々だが、そこにはテレビやインターネットがあり、酒も飲むしタバコ(パブリックスペースで吸っているのが見つかったら3年刑務所に入るらしい)も吸う。格好はジーパンにTシャツにスニーカー、女の子はスリムパンツを着てたりする感じで日本とほとんど変わらない。この日は僕が伝統衣装の「ゴ」を着ていたから、日本人が「ゴ」を着て、ブータン人がカジュアルという、なんともヘンテコな状況だった。着いた時にはみんなはもうかなり酔っぱらっていたこともあり、突然訪問した僕にも親しく普段通りに接してくれた。

 

 深夜に高台にあるラジオ塔までドライブしてティンプーの夜景を見に行ったり、外見は真っ暗でドアの隙間から微妙に光の漏れているような、知らなかったら決して入れない郊外の隠れた飲み屋のような場所に行ったり、結局、朝5:00頃まで飲んで、その日はホテルに戻らずにシェアハウスで仮眠させてもらった。朝起きるとみんな「ゴ」に着替えて出勤である。自分も一緒に出勤する車に乗せてもらいミーティングに向かった。別れ際はフェイスブックやってるからメールするね。といった感じ。

 

 これもまた僕が出会ったブータンの現実である。観光ガイドで紹介される桃源郷のようなブータンの対極にある部分だ。表層的な観光をしたって決して見えてはこない。

 

 観光の話に戻すと、観光局長からの相談は「今後、このブータンという国はどう進んでいくべきなのだろうか?」ということなのだろうと思う。これは国の行く末であって、少し話が大きすぎる気もするが、観光を国の収入源としてやっていくということは、国をどうつくって伝えていくかということだ。しかも観光資源は美しい自然と伝統的な暮らしである。

 

沖縄、タイ、、、など想い描いても、どこの国もうまくいったためしがない。観光客が自然を踏み荒らし、現地の人は金銭収入が生きる目的となり、最終的には表層だけの伝統文化が残り、暮らしの中での機能を果たすことは二度となくなる。

 

 出会った若者達からも分かるように、今という時代に世界と繋がることを避けることはもうできない。利便性や経済的発展を求める意識も強くなるだろう。

 

ここで考えるのが、この国が掲げるGNH(国民総幸福指数)である。「幸せとは何か?」この問いかけに、世界を知った上で、この国の人達は何を選択し、どう生きていこうとするのか。

どこの国もできなかった第3の選択をできる可能性を僕はブータンに感じている。

 

経済的発展と引き換えに日本が失った、美しい日常生活。ブータンにはまだそれがある。だが、世界と繋がりながら、その美しい日常を維持し、観光として伝えていくことは簡単なことではない。

 

そこでアートの力が役に立つのではないだろうか、アートプロジェクトがその美しい日常を伝えていく可能性をもっているというのが、観光局長への日比野さんからの提案であった。そして、今後、ブータンで展開していきたいアートプロジェクトの構想を、この時に伝えたのであった。GNHを実現化させるためのアートの役割。実は僕もこの時に、はじめてちゃんと聞いた。

 

僕は、アートプロジェクトには土地と土地、人と人、土地と人、といった既にあるものに対して新しい関係性をつくる力があると考えている。もっと簡単に言うと、その地域に訪れた人と、地元の人をごちゃ混ぜにし、交流させつつも、その土地の持つ魅力や美しい日常を問題提起も含めて伝えていくことができる。また、そういった役割を担っているのだと思う。

 

国の未来と観光とアートプロジェクト。なんだかとても壮大な話のように思えるが、Druk schoolに訪れた日本人アーティスト2人と、20人の生徒と、美術の先生と、校長先生、あとガイドと運転手で巻き起こした「School of Sky」が結果的にその最初の一歩となったに違いない。

 

どこに行って何をするか。はっきりとは分からないままブータン入りしたわけだが、ただやれることを全力投球で限界までやってみた結果が、今後の構想の中での最初の役割をちゃんと果たしていたことを、最後の2日を通して確かめることができた。