ブータンの首都ティンプーでのワークショップを実行するべく現地に滞在するアーティスト五十嵐靖晃と北澤潤の日記。

2011年3月28日月曜日

1日目 五十嵐靖晃

2011年3月25日

「ブータン入国」

 AM4:00起床。時差ボケなのか移動の疲れなのか、ここ数日まともに寝てないので、目覚まし時計の音が耳に届いてはいるのだが、なかなか体がベッドから離れようとしない。ギリギリまで寝て、素早くチェックアウトし、ベッドから離れてから15分後には空港へ向かうホテルのバスの中にいた。辺りはまだ暗い。ホテルの前は広場になっており、昨日着いた夕方には仕事帰りの地元の人が行き交う活気ある青空市場が開かれていたのだが、跡形もなくきれいさっぱり消え去っていた。あれはいったいどこにいったのだろう。記憶を疑うほどの何もない空間に驚き目が覚めた。

 空港に着いたらまっすぐDrukairのカウンターへ向かい搭乗手続きを澄まし、軽く朝食を取り、6:50発の飛行機でいざブータンへ出発。機内は意外にも日本人が多い印象である。その後知ったのだが、ブータンに来る外国人はアメリカ人に続いて日本人が2番目の割合を占めるそうである。飛行機の尾翼にはブータン国旗のデザインがされており、斜めに構成された黄色とオレンジの上に大きく描かれたドラゴンの姿に、いよいよブータンに近づいて来ているのだと実感する。搭乗後は眠気に耐えられずあっという間に就寝。次の瞬間機内朝食が運ばれてきた。さっき食べたのに、、、。眠気と戦いながら全てたいらげた直後に死んだように眠る。次に目が覚めた時には、着陸態勢に入っていた。いよいよブータンか。徐々に町の姿が見えてきた。意外にも建物が多く、町は平らな所にある。ちょっとイメージと違うな。と思ったが無事に着陸。皆、ごぞごぞと荷物をまとめている。が、ちょっとおかしい。周りを見るとインドっぽい褐色の肌の人ばかりが降りて行くではないか。窓側に座っていた潤が窓の外を指して一言「五十嵐さんあそこにダッカって書いてありますよ」窓の外に目をやるとそこには確かにダッカと書かれている。そう、ここはバングラディシュのダッカ空港である。勝手にブータンのパロへと直行するものだと思っていたものだから、これは危ないところだった。ここで気づかず降りていたら危うく僕の中でバングラディシュがブータンになるところだった。

 30分ほどダッカに留まり、ダッカからの新たな乗客も席に着き、再び離陸。次の着陸先こそ間違いなくブータンである。残りのフライトは一時間程度ある。あと少し寝れる。と思ったが、なんと再び機内食が運ばれてくるではないか。さっき食べたのに、、、。量は少ないがこれで今日は三度目の朝食である。お腹をパンパンにしながらたいらげると、窓の外の風景が変わってきた。さっきまで眼下に広がっていた雲海がすぐ側まで迫り、遠くに白いけれど雲ではない何かが雲海から飛び出している。なんだあれ?よく見ると、それはなんと山だった。飛行機の高度はおそらく10000m。まさかこの高度の視線の先に山の頂が見えるなんて、しかも雲から飛び出している。ヒマラヤ山脈に違いない。着陸態勢に入るアナウンスが聞こえる。真っ白の雲の中を抜けると、雄大な山々広がり、その山々を縫うように右に左に旋回しながら高度を下げて行く。ぽつぽつと建築物が見えてきた。その建物と建物をつなぐように山の等高線の形に沿って走る白い線が道である。さらに近づいてくると、それらは無数にある棚田の畦道とつながり、有機的な曲線の連続した白い道の網のようである。その網の中には薄い緑色が広がっている。そんな光景が山を旋回する度に近づいてきて、最後に大きく右に旋回し着陸し、無事ブータンのパロに到着。飛行機から外に出て、タラップの上で、まず最初に感じたのが空気の美味しさだった。次にその静けさ、吹き抜ける風の音だけが印象に残っている。暖かく穏やかな春のプータンである。辺りを見渡すと、空港の周りには山と空しかなく、伝統建築をベースに建てられた小さな空港施設がぽつんとそこに建っており、独特な民族衣装を着た人の姿がちらほらと見えた。

 イミグレーションを済まし入国しようとすると、タバコを持ってないか?と質問される。封の空いた吸いかけのタバコが一箱あったので「あるよ」と答えると、それを許可なく持って入国し、公共の場で吸っている所を警察に見つかったら逮捕されると説明を受ける。ブータンは禁煙の国なのである。税金を支払うために別室に移動。何本持っているか正確に数えられ相応の金額を支払うのだが、両替したばかりで端数分の細かいお金が互いにどうにも崩せないことがわかると、あっさり、じゃあその分はディスカウントで、ということになった。なんだか生真面目でありつつ、おおらかな性格の方々のようだ。

 そんなこんなで時間より遅い入国となり、待ち合わせしていた現地ガイドさんをずいぶん待たせてしまい申し訳ないことをした。ブータンでは観光客に対して、必ずガイドがその全滞在期間を同行する。言うなれば良い時間を過ごせるかどうかは、自分とそのガイドさんとの相性ともいえる。待ちくたびれていたガイドさんの名は「ドルジさん」日本語が話せる良い感じの方で安心した。「ようこそプータンへ」の言葉と共に白い細長い布をいただいた。ウエルカム布といったところだろうか。

 簡単な自己紹介を終え、まずは博物館へ向かった。途中、木と土でできた伝統的な民家がいくつも通り過ぎていく。一階は牛を飼い、二階は倉庫、三階は生活空間だという。大きな柳の木が透明な川沿いにたくさん生えている。桃の花もあちこちでピンクの花を咲かせている。途中、牛が歩いていたり、ダルシンやルンタと呼ばれる経文の書かれた色とりどりの旗があちこちに立っている。旗は風の通る所に建っているらしい。

 博物館は山の中腹にあり、パロの町が見渡せる。以前はパロの城の見張り台だった。なのでその博物館の下には大きな城がある。今は行政機関と寺の役割の両方を担っており、役所の人とお坊さんがいる。城は「ゾン」と呼ばれている。やはりどちらも木と土でできた伝統的な建物である。博物館(撮影禁止)の中には7世紀頃の土器から、仏画、仏像、各地方の伝統衣装などプータンの歴史と国民の思想背景が一通り分かるようなものが展示してあった。何より建物の中身が立体迷路のように複雑で、木でできた床や階段は時間が生んだ歪みや凸凹があり、なんだか建物探検しているような感覚になった。

 昼食を済ませて、その後、パロの城「ゾン」に向かう。博物館から見下ろした時にも気になっていたのだが、ゾンのすぐ横で何やら工事をしている。どうやら新たに建物を建てているようだ。ガイドのドルジさんに聞くと、行政の偉い人が住むのだという。辺りは石をハンマーで割るキーンといった高い音が一定の間隔で響いている。更に近づいてみると足を止めずにはいられない魅力的な光景が広がっていた。その建築作業をしているのは男性と女性の老若男女で、なんとものんびりというか、ゆるーく、楽しそうに作業をしている。建物のつくり方は石積んだらセメントを乗せて、また石を積んでを繰り返し壁を高くしていくといったもので、石を運ぶ人、運ばれた石を割りきれいに積む人、セメントを運ぶ人、セメントを石の隙間に塗り込む人といった感じが明確な作業をしている人で、中にはただ立っている人、明らかに飽きて遊んでいる人、中には寝てる人までいる。これはすごい。なかなかあり得ない光景である。これらのことが高さ3m、幅90㎝ほどの塀の上で巻き起こっているのである。

 いてもたってもいられなくなり、ゾンの見学は後回しにして、僕と潤は作業に参加させてもらうことにした。この間、ガイドのドルジさんはカメラマンとして記録係をしてもらった。カメラを構えたドルジさんはまんざらでもない様子で記録を楽しんでくれたようだ。

 僕らは石を担いで、なんとなく現場の様子やみんなの反応を伺いながら徐々にその作業の輪の中に入っていった。塀の上まで石を運ぶと皆、誰だこいつらは?といった表情と、同時に興味も持ってくれたようだった。作業に参加するにあたって何がありで、何がなしなのか分からないので、ましてや言葉もまったく分からない。まずは自分のできそうなことを捜す。潤は引き続き下から塀の上まで石を運んだ。僕はおばちゃんと一緒にズタ袋の上に水と練ったセメントを乗せ四隅の紐をつかんで2人一組で塀の上まで運んだ。現地の言葉で何やらヤジのようなものが飛び、おばちゃんは少し恥ずかしそうに運んでいる。何度も繰り返すうちに徐々に仕事と場に馴染み、最初はかけ声程度しか合わせられなかったのだが、次に言葉を覚える。石は「ララ」セメントは「○○○」大きいは「ボンボン」。

 結局2時間作業していた。最後には、僕は3m下から投げ上げられた石を塀の上でひたすらキャッチし続け、石上げチームの一員になっていた。潤は石組の技術を覚えていた。体はきつかったが、本当に楽しかったので建物が完成するまで付き合いたい気分だ。

 ここにはワークショップの本質的なものが機能していた。誰かが指示を出すわけでもなく、指示を待つわけでもなく、それぞれが自分で仕事をみつけ、互いに反応し合い、盛り上がってきたらみんなでワイワイと作業を進め、疲れたら手を止めて休む。言葉もたいしていらない。ブータンのここパロにはそんなものが当たり前のように機能していた。

 最後にあの人達は仕事なの?とガイドのドルジさんに聞くと、「彼らは村人でお金は出ない。

パロのそれぞれの村が期間を決めて持ち回りで少しずつ作っているんだ」という。まったく驚きだ。自分たちの村の役人が住む建物を村のみんなでのんびり作っているのだ。建築業者が来て建ててしまったら、村の人にとっても、役人にとってもその建物はただの建築物にすぎない。しかしこうして、村の人達みんなの手で作ることで、建物はそこに入る役人の人と村の人々をつなぐメディアになるのである。 

 日本のことを考える。ブータンに着いてから、イミグレーションのタバコ担当者や、ガイドのドルジさんにも日本の地震について聞かれた。当然ブータンにも情報は届いている。ブータン国王から日本に送られた義援金について、いわき市や水戸市の知人から感謝の意を託されていた。国王に会えるかどうかは分からないので、まずはドルジさんにその気持ちを伝えさせてもらった。ドルジさんは「日本のおかげでブータンにはたくさん橋が架けられました」と返してくれた。

 今も被災地では復興作業が続き、これからたくさんの新しい建物が建てられるのだろう。その建てられ方にも様々な選択の可能性があるのではないだろうかと、ブータンの建築現場での経験を通して考える。

 

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